広島ゆかりの人物情報
「広島ゆかりの人物の紹介」は、広島市の歴史に足跡を残した著名な人物の情報を収集、発信し、市民の皆様に活用していただくことを通して、郷土広島への愛着と誇りを持つことができるようにするとともに、地域の歴史的・文化的資源を生かした千客万来のまちづくりに寄与することを目指すものです。
ここでは、政治、経済の発展や文化の振興等に貢献することにより、広島市の歴史に足跡を残した著名な人物のうち、図書館に伝記等の文書資料のある主な人物を紹介します。
現在、これらの人物に関する資料は、主に中央図書館3階の郷土資料を収集する広島資料室にあります。詳しくは、職員におたずねください。
今後は、このコーナーの人物や内容の充実に努めていきます。これらの人物に関する資料や情報を収集していますのでご協力をお願いします。
歴史分野(明治以前)
広島城を築き城下の町割を定め、現在の広島市域の基礎を作った毛利輝元、毛利氏に続いて広島を治世した福島正則、浅野長晟、武家茶道を創始した上田宗箇、幕末期の儒者で文人としても知られる頼山陽などを紹介します。
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(1553~1625) 江戸初期の武将 |
安芸国郡山城主から中国地方を制圧した毛利元就の長子隆元の子である。隆元急死を受けて跡を継ぎ、拡大した領国の中心として広島の地へ進出することとし、居城を築き、今日の広島の礎を成すこととなるが、関ヶ原の戦い後、防長二ヶ国に領国を減ぜられる。 |
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(1561~1624) 織豊期~江戸初期の |
尾張国に生まれる。幼少から豊臣秀吉に仕え、賎ヶ岳七本鑓の一人。各地を転戦し、功を立て、伊予今治、尾張清洲城主となる。秀吉の死後、対立していた石田三成を失脚させ、関ヶ原の戦いにおいても、徳川家康の東軍の主力として活躍し、戦後安芸広島49万石を領することとなる。大坂の陣の後、広島城の石垣の修築等を無届けとして処断され、信濃川中島へ蟄居させられる。 |
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(1563~1650) 江戸初期の武将、 |
尾張国に生まれる。丹羽長秀、明智光秀に仕えた後、豊臣秀吉に仕える。関ヶ原の戦いでは石田三成方についたため、禄を離れ、食客として、阿波の蜂須賀家政に遇され、その後紀伊の浅野幸長に招かれる。この間、徳島城内庭園や紀伊粉河寺の作庭に携わる。その後、浅野家の安芸移封に伴い、広島の地に赴き、藩主別邸の縮景園等を築いた。また、千利休、古田織部について修めた茶道を広島の地に広めた。茶道上田宗箇流の始祖。 |
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(1586~1632) 江戸初期の武将、大名 |
豊臣秀吉の縁戚にあたり、父長政も秀吉に重用され、長晟も幼少から仕えるが、その死後は徳川家康に仕える。関ヶ原の戦い後、紀伊国和歌山を領していた兄幸長の死でその遺領を継ぎ、大坂の陣後には功により安芸・備後両国で42万石を領する。以後、浅野氏が明治期まで広島を一貫して領した。 |
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(1780~1832) 江戸後期の儒学者、 |
大坂に生まれる。広島藩儒の父頼春水に従い、広島に移る。名は襄(のぼる)。 |
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(1623~1697) 江戸時代前期の農学者 |
安芸の国広島生まれ。広島藩士宮崎儀右衛門の次男として生まれ、正保4年(1647年)25歳のとき福岡藩二代藩主黒田忠之に200石で仕えていたが、30歳をすぎて職を辞し、女原村(福岡市西区周船寺)で開墾事業を行い、農業に従事し、農民の指導を行った。当時農業の先進地域であった畿内各地、さらに中国地方などをめぐり古老の農業体験などを収集し、交流のあった貝原益軒の本草学の影響も受け、農業技術の発展を図った。元禄10年(1697年)に公刊された「農業全書」全10巻は、水戸光圀が絶賛したものであり、徳川吉宗の座右の書にもなった。大蔵永常・佐藤信淵とともに江戸期の三大農学者と称されている。 |
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(1734-1806) 広島藩士・日本画家 |
広島生まれ。名を煥、通称は利源太、字は君章、岷山と号した。幼少の頃から画道を志し、広島藩の絵師であった狩野派の勝田幽渓に学び狩野派の画法を習得。その後、江戸で宋紫石の門に入り、江戸・上方で流行した沈南蘋流の精細な花鳥画を会得した。7代藩主浅野重晟に仕え、初めは藩の歩行組の絵師であったといわれ、安永10年(1781年)に奥詰次席に、天明3年(1783年)に奥詰に昇進。藩命または藩命に準じた公務としての絵画制作活動、出頭画人として江戸や国元で求めに応じ筆を振るう活動、藩主をはじめとした家中や門人などへの指導で多忙を極めた。三人の子がありそれぞれに絵を指導。没後、岡家代々の菩提寺である心行寺に葬られる。「暁竹図」「百花百虫屏風」「倣呂廷根之図」「都志見往来日記・同諸勝図」などがある。 |
政治、経済分野
広島出身の初の総理大臣であり、軍縮に貢献した加藤友三郎、広島市議会議長から国政に転じ、大蔵大臣になった早速整爾、広島県令(後の県知事)として赴任し、宇品築港を完成させた千田貞暁などを紹介します。
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(1836~1908) 政治家 |
薩摩藩(鹿児島県)に生まれる。戊辰戦争にも従軍する。 |
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(1861~1923) 海軍軍人、政治家 |
広島市大手町(広島市中区)に生まれる。父は広島藩士。子爵。 |
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(1868~1926) 政治家 |
広島県沼田郡新庄村(広島市西区)に生まれる。旧姓、中山。 |
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(1875~1952) 実業家、マツダ創業者 |
安芸郡仁保島向洋(広島市南区)に生まれる。 |
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(1893~1945) 被爆時の広島市長 |
山口県に生まれる。東京帝国大卒。 |
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(1899~1965) 政治家 |
広島県竹原市に生まれる。京都帝国大卒。 |
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(1899~1994) 政治家 |
広島県佐伯郡大柿町(江田島市大柿町)に生まれる。東京帝国大卒。 |
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(1905~1968) 元広島市長 |
広島市三川町(広島市中区)に生まれる。東京帝国大卒。 |
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(1888~1984) 社会学者・政治家・教育者 |
福山市生まれ。 |
文化、芸術分野
旧制広島高等学校出身で、戦後の広島平和記念公園の競技設計などを手がけて、その地位を確立した丹下健三、平和記念公園ほかに多数の作品がある、御調町出身の彫刻家の円鍔勝三などを紹介します。
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(1906~1997) 女優 |
広島市西地方町(広島市中区)に生まれる。山中高等女学校卒。 |
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(1923~1981) 俳優 |
広島市千田町(広島市中区)に生まれる。文化学院文学部卒。 |
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(1905~2003) 彫刻家。本名勝二。 |
御調郡御調町(尾道市御調町)に生まれる。昭和7年(1932年)日本美術学校卒。 |
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(1875~1956) 画家 |
安佐郡伴村(広島市安佐南区)に生まれる。明治30年(1897年)飯室村(広島市安佐北区)の丸木金助と結婚。家業の船宿を手伝うかたわら農業に従事する。明治34年(1901年)長男位里出産。70歳を過ぎてから丸木位里・俊夫妻にすめられて絵を描き始める。昭和24年(1949年)広島県美術展に入選。昭和26年(1951年)~昭和28年(1953年)日本美術院展に入選、院友となった。昭和31年(1956年)81歳で死亡するまでに700点を超える厖大な数の絵を描いた。 |
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(1901~1995) 日本画家 |
安佐郡飯室村(広島市安佐北区)に生まれる。飯室尋常高等小学校卒。 |
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(1908~1971) 洋画家 |
広島市西蟹屋町(広島市南区)に生まれる。広島東高等小学校卒。 |
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(1912~1989) 日本画家 |
アメリカ合衆国ハワイ・ヒロ市に生まれる。間もなく広島に帰国。広陵中学校卒。 |
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(1912~1974) 洋画家 |
広島市的場町(広島市南区)に生まれる。大阪美術学校卒。 |
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(1930~2009) 日本画家 |
豊田郡瀬戸田町(尾道市瀬戸田町)に生まれる。東京美術学校(東京芸術大学)卒。 |
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(1913~2005) 建築家 |
大阪府に生まれる。東京帝国大建築学科卒。 |
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(1904~1988) 彫刻家 |
米国ロサンゼルスに生まれる。野口米次郎(明治8年(1875年)~昭和22年(1947年)詩人)の子。 |
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(1899~1978) 能楽師 |
広島市上幟町(広島市中区)に生まれる。 |
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(1901~2001) 尺八奏者 |
佐伯郡五日市町(広島市佐伯区)に生まれる。中国吉林省の長春中学校卒。本名 重蔵。 |
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(1927~2008) 編集者・評論家・随筆家 |
広島市生まれ。 |
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(1939~2012) 漫画家 |
広島市中区舟入本町に生まれる。本名は中澤啓治。 |
スポーツ分野
わが国最初のオリンピック金メダリストとなった三段跳びの織田幹雄、オリンピックに4回出場し、世界の名セッターといわれたバレーボールの猫田勝敏などを紹介します。
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(1905~1998) わが国最初の |
安芸郡海田町に生まれる。早稲田大学卒。 |
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(1944~1983) バレーボール選手、監督 |
安佐郡安古市町(広島市安佐南区)に生まれる。崇徳高校卒。 |
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(1960~1993) プロ野球選手 |
山口県に生まれる。山口県立南陽工業高校卒。 |
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(1914-1979) 大相撲力士 |
広島市南区宇品海岸に生まれる。本名は永田節男(ながた たかお)。 |
科学分野
江戸後期、日本初の木造人体骨格模型を作った星野良悦。明治期、様々な医学史料を研究し、日本の医学界に貢献した富士川游などを紹介します。
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(1865~1940) 医(史)学者 |
沼田郡長楽寺(広島市安佐南区)に生まれる。幼名は充人(みつと)、明治5年(1872年)藤川を富士川に改姓。明治14年(1881年)広島県広島医学校に入学、この頃游に改名。明治20年(1887年)同校卒業。明治24年(1891年)頃から医学の史料を収集研究し、医学史に関する論文や著作を発表する傍ら、明治29年(1896年)芸備医学会を設立。その後も精力的に活動し、明治37年(1904年)に著した「日本医学史」で帝国学士院恩賜賞を受賞。大正3年(1914年)日本医師協会を設立。同年文学博士の学位も受ける。郷土への愛着心から総合雑誌「飽薇(ほうび)」を創刊した。広島大学医学部構内と安佐南区長楽寺三丁目に顕彰碑がある。 |
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(1754~1802) 町医者 |
宝暦4年(1754年)、安芸国堺町(広島市中区)に生まれる。父の後を継ぎ町医者(江戸時代、市中で開業する医者)となる。蘭方医(オランダから伝わった医術)をめざし、治療には人体の構造を理解することが重要であると認識する。藩の許可を得て解剖した死体の骨を研究し、寛政4年(1792年)細工職人を指導し、血管が通る穴まで復元した精巧な、組立て式の骨格模型を製作した。後に、木骨を携え江戸に行き「解体新書」の訳者で知られる杉田玄白、大槻玄沢等からその精巧さを絶賛された。さらに1体の木骨を作製し、これを幕府医学館に献上、「身幹儀(しんかんぎ)」と名づけられた。藩医の後藤家に伝わった木骨は現在広島大学医学部医学資料館が所蔵。昭和46年(1971年)広島市指定重要有形文化財、平成16年(2004年)国の重要文化財に指定。国内最古の人骨模型として人体の骨格構造を知る貴重な資料で、江戸時代の医学発展に寄与した。 |
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(1927~2014) 化学者 |
広島市生まれ。1940年代後半から複数のベンゼン環を含む有機分子に着目し、分子間の電気伝導に関する先駆的な研究を進め、昭和25年(1950年)、有機半導体の概念を発見した。それまで絶縁体と思われていた有機化合物に電気を導くものがあることを発見し、これを電気電子材料として用いるという全く新しい発想のもとに、現在の分子エレクトロニクスに至る広大な分野を開拓・先導してきた。さらに、有機分子の科学と技術の分野において優れた人材と研究グループを育て、電子機能性有機物質の世界的研究拠点を築き、国際的な学術交流にも大きく貢献している。 |
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(1895~1987) 物理学者 |
広島県安芸郡矢賀村(現広島市東区)生まれ。東北帝国大学工学専門部を経て大正11年(1922年)同大学理学部物理学科を卒業。八木秀次、本多光太郎につ いて学ぶ。大正13年(1924年)金属コバルトの磁気的・熱的・電気的性質を含めた実験を行い、477度の温度で結晶変態があることをつきとめ、それまで混乱のあった金属コバルトの物性を明らかにし一躍有名となった。以後、数多くの新合金の発見開発により、現代の生活に欠かすことのできない多くの精密機器の性能向上およびその発展に貢献し、世界の科学技術の進歩に大きな足跡を残した。 |
平和分野
原爆ドームを設計したヤン・レツル、被爆直後の広島に大量の医薬品を送らせたマルセル・ジュノーなどを紹介します。
人物をクリックすると、その人物名を検索項目にし、蔵書検索(書名・著者名・テーマ・人名)を行います。なお、同姓同名等により、別の人物に関する資料が表示される場合がありますが、ご了承ください(日本人は漢字で外国人はカナ読みで検索しています)。
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(1880~1925) 建築家 |
チェコのナホトに生まれる。プラハ美術専門学校建築科卒。1907年(明治40年)建築事務所に就職するために来日。明治42年(1909年)独立し建築設計事務所を設立。大正5年(1916年)に一時帰国するが大正7年(1918年)再来日。日本に滞在した約10年間に松島パークホテル、広島県物産陳列館、宮島ホテルなど20余りの設計に従事した。広島県物産陳列館(後の産業奨励館)は大正4年(1915年)完成。現在は原爆ドームとして世界に平和を訴えている。原爆ドームは平成8年(1996年)ユネスコの世界遺産に登録された。 |
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(1895~2001) 森林学者 |
原爆によって住む家を失った人達のため、「ヒロシマの家」計画の名の下に住宅建築資金の募金を始め、昭和23年(1948年)から昭和28年(1953年)にかけて地元の協力者とともに住宅15軒、公民館(シュモー会館)1棟を建築、広島市に寄贈した。昭和58年(1983年)広島市特別名誉市民の称号を受ける。アメリカのシアトル市には平成2年(1990年)シュモー氏の働きかけで建設された「シアトル・ピース・パーク」があり中央にサダコ像が設置されている。 |
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(1896~1974) 詩人・評論家 |
イギリスのロンドンに生まれる。第一次世界大戦に従軍。戦後オックスフォード大学に復学。大正13年(1924年)~昭和2年(1927年)東京帝国大学で英文学教師を務める。昭和22年(1947年)イギリス政府の使節として再来日し昭和25年(1950年)まで滞在。日本文化再興のため、国内各地で講演を行った。昭和23年(1948年)冬、広島を訪れ、「HIROSHIMA―1949年8月6日によせて―」という詩を残している。広島市立中央図書館前(北側)にこの詩を刻んだ詩碑がある。 |
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(1898~1990) 神父 |
ドイツのウェストファーレンに生まれる。本名フーゴー・ラサール(Hugo Lassale)。第一次世界大戦で戦傷を負い、戦後、大正8年(1919年)イエズス会に入会。オランダの聖イグナチオ大学、イギリスのストーハーニスト大学、ヒースロッブ大学院等で哲学や神学を学ぶ。昭和4年(1929年)来日。上智大学教授を務め、昭和15年(1940年)から広島カトリック教会に転じた。昭和20年(1945年)8月6日被爆。世界平和記念聖堂の建設に尽力する。昭和23年(1948年)日本に帰化。昭和43年(1968年)広島市名誉市民となる。平成2年(1990年)ドイツで死去した。 |
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(1903~1972) 作家 |
フランス在住のアメリカ人作家。ハーバード大学卒。昭和30年(1955年)および昭和32年(1957年)広島を訪れ、昭和32年(1957年)被爆者の精神的安らぎのために私費を投じて南区宇品西二丁目に「広島憩いの家」を創設。昭和42年(1967年)広島市特別名誉市民の称号を受けた。 |
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(1903~1988) 作家 |
スウェーデンの軍人の家庭に生まれる。ロンドンで勉学中アイラ・モリスと知り合い、結婚。夫とともに「広島憩いの家」創設に尽力する。昭和34年(1959年)広島の被爆者に取材した小説『ヒロシマの花』をロンドン、パリ、ニューヨークで同時出版。ベストセラーになり30カ国で翻訳され300万部を売り上げ、シュバイツァー文学賞を受賞した。昭和42年(1967年)広島市特別名誉市民の称号を受けた。 |
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(1904~1961) 医師 |
スイスのラ・ショー・ド・フォンに生まれる。昭和20年(1945年)8月9日赤十字国際委員会の代表として来日。原爆被災の惨状を知り、GHQ(連合国軍 最高司令官総司令部)に交渉し、15トンの医薬品を送らせた。自らも9月8日広島に入り、惨禍の実情を調査し、治療にあたった。平和記念公園南側に記念碑、広島赤十字・原爆病院にレリーフ、袋町小学校西側にジュノー広場がある。 |
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(1912~1991) 宗教家 |
アメリカのフロリダ州ペンサコラに生まれる。テネシー州スカーレット大学大学院で聖書、文学を学び宣教師に任命される。テネシー州バンダビルド大学大学院で社会福祉学を学ぶ。昭和22年(1947年)広島女学院専門部教授に就任(翌年広島女学院大学教授)。牛田教会設立を支援する。広島日米協会役員やワールド・フレンドシップ・センター理事などを務め、広島キリスト教社会館など多くの事業に加わった。また広島県、市の社会事業関係課でケーススタディーを手伝い、物心両面の支援を惜しまなかった。昭和55年(1980年)広島市特別名誉市民の称号を受けた。 |
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(1914~1993) ジャーナリスト・作家 |
アメリカ人。中国で宣教師をしていた父の関係で天津に生まれる。エール大学卒。「タイム」の記者として第二次世界大戦に従軍。小説『アダノの鐘』でピュリッツァー賞を受賞した。昭和21年(1946年)5月広島を訪れ、流川教会の谷本清牧師ら6人の被爆者から聞き取りを行い、アメリカの週刊誌「ニューヨーカー」に『ヒロシマ』を発表。即日30万部を売り尽くし、新聞にも連載され、大きな反響を呼んだ。昭和60年(1985年)にも来広し、広島のその後を「ニューヨーカー」に寄稿した。 |
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(1915~1990) ジャーナリスト |
アメリカのニュージャージー州に生まれる。コロンビア大学卒。ニューヨークの文芸雑誌「土曜文学評論」の編集長として昭和24年(1949年)広島を訪れ、ルポ「4年後のヒロシマ」を発表。これを契機に、流川教会の谷本清牧師らとともに原爆により家族を失った子どもたちに対する「精神養子運動」を行い、400名を超える子どもたちに物心両面で支援した。さらに昭和30年(1955年)谷本牧師や原田東岷医師が取り組んでいた原爆後遺症のケロイドの治療に関わり、25名の女性の渡米治療に尽力した。昭和39年(1964年)広島市特別名誉市民の称号を受けた。平和記念公園南側に記念碑がある。 |
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(1915~1990) 平和活動家 |
アメリカのオハイオ州ミルウォーキーに生まれる。コロンビア大学中退。昭和26年(1951年)ABCC(原爆傷害調査委員会現・放射線影響研究所)研究員の夫とともに来日。昭和37年(1962年)広島の被爆者とともに欧米の国々を訪問する「平和巡礼計画」を実施。原水爆使用禁止や核実験停止を訴えた。昭和39年(1964年)にも「ヒロシマ・ナガサキ世界平和研究使節団」を実施。昭和40年(1965年)「ワールド・フレンドシップ・センター」を発足させた。昭和44年(1969年)離日。オハイオ州ウィルミントン大学「ピース・リソース・センター」に「ヒロシマ・ナガサキ原爆祈念文庫」を設立。昭和50年(1975年)広島市特別名誉市民の称号を受けた。 |
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(1920~2005) ローマ法王 |
ポーランドのヴァドヴィツェに生まれる。昭和17年(1942年)から地下組織の神学校で学ぶ。昭和21年(1946年)司祭となりローマへ留学。アンジェリクム神学大学で学び、神学博士号を授与される。昭和53年(1978年)第264代の教皇に選出される。100カ国以上を訪問し、人間の尊厳と世界の平和を訴え、他派のキリスト教会や異宗教との対話にも力を入れていた。昭和56年(1981年)2月来日し東京、広島、長崎を訪問。2月25日広島から全世界に向けて平和アピールを発した。平和記念資料館の1階ロビーにローマ法王平和アピール碑がある。 |